二十ン年目の気づき

私の父は私が高一の秋急逝しました。

それまでは、悲しいニュースを見ては涙を流していたものの、世の中の不幸はブラウン管の中の事のようにしか実感していなかった私でした。

祖父が始めた家業。継いだ父の下には多い時で20余人の従業員がいました。祖母の目の前で祖父が始めた会社をたたむわけにはいかない、従業員の中には路頭に迷うものも出るだろう、という親族の話し合い。当時高三、大学受験勉強真っ最中だった下の兄が「俺が継ぐ」と言いました。(大学3年だった上の兄に中退は勿体無い、というのもあったと思います。)

私は県立の進学校に通っていましたが、卒業後の進路は全く白紙になりました。思い悩んだ記憶はありません。自分でどうできるものでもないので。兄の苦労を身近に感じながら、自分はただ目の前の学業をこなしていきました。

高二の終わり頃だったでしょうか? 兄が夜私の後ろを通り過ぎざま、「喜代子、大学行っていいぞ」と言いました。「あ、はい」とだけ返事をし、心の中で「そうか私、行っていいんだ」と思いました。

その時はそれだけだったのです。

無事授業料の安い大学に入り、中学・高校の教員免許も一応取りました。

お蔭でこちらに来てから、高校で教える機会も持てました。

学生時代から翻訳にも関わり、アンデリンさんの素晴らしい本にも出合えました。

兄が進学させてくれたからこそ、と兄にも感謝を伝えてきました。

でも…

「行っていいぞ」と言ってくれた兄の気持ち、そこに至るまでの兄の思い…

それを自分は考えたことがなかった、思いを寄せたことがなかった

と、気づいたのは何と昨年の暮

二十ン年経ってからでした。

本当に恥ずかしい限りです。

教壇にも立ち、生徒の悩みも聞き、講座をして、求められれば個人的に話も聞いてきながら…

高二の頃は幼かった自分。「あ、はい」だけでも仕方ないとしましょう。結婚して子供を産んで(二人とも実家で出産)、兄には子供達を本当に可愛がってもらってきました。有り難う、有り難う、と言ってきながらも、子供達の将来に思いを巡らせていた昨年暮のある日まで、思い至らなかったのです。

兄への詫びと改めての感謝は手紙に綴って送りました。

こんなに遅い気づきでも、伝えなければ意味は半分以下ですから

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